壁のイエスキリスト

 

 エイミが目を覚ますと、一番最初に壁の高いところにある十字架に架けられたイエスキリストが視界に飛び込んできた。黒ずんで埃をかぶったイエスキリストはもう何十年もそこに留まって、この病室を見下ろしてきたようだ。

 

 ベッドのまわりには誰もいない。そのかわりに、エイミの体から伸びているいくつかの管が、ベッド脇の透明な液体の入った点滴の袋がぶらさがったスタンドや見たこともない医療機器につながっている。ああ、そうだ、と思い出した。

 

 手術は終わったけれど、ちょっと複雑なことになったのだ。付き添いに来てくれた彼が「今日、一晩入院することになったって」と素っ気なく告げた。じゃあ、仕事があるから、また明日来るよ、ゆっくり眠りな、そう言って彼は逃げるようにそそくさと病室を出て行った。エイミは目でうなずいた後、重い瞼に抗えず、すぐにまた眠りに落ちて行ったのだった。

 

 今、完全に覚醒したエイミはほっと小さく溜息をついた。同時に体の感覚を確かめていく。頭のてっぺん、顔、鼻、口、肩、腕、手のひら、胸、腰、太もも、膝、足、つま先。大丈夫、少し重たいけど、手術前と同じように感じることができる。でも、お腹のあたりにぽっかりと空洞ができていた。今朝まで二人だったのに、今は一人の体になったのだ。簡単な手術のはずだった。入院など必要ないはずだった。でも、何かが私を簡単には許さなかったのだ、とエイミは思う。涙は出なかったが、そのかわりにぎゅっと目をつぶって心の中で絶叫した。

 

 再び目を開けると、壁のイエスキリストがエイミを見ていた。そういえばトロントにはキリスト系の病院がいくつかあったなと思い出した。マウントサイナイ、セントジョセフ、セントマイケル…

 

 ダークグリーンのスクラブを着た大柄の女性看護師がひょいと入ってきて、エイミの顔を一瞥してから点滴のチェックを始めた。

 「気分はどう?」

 声を出そうとした時、全身に疲労を感じて、空気を斬るような音が喉から出た。喉がひどく痛む。そして、下腹部がジクジクとざわめきだした。

 

 「スケール1から10までで、今の痛み指数はいくつ?」

 分からない。第一、何も考えられない。

 Maybe seven?

 エイミは適当に答えたのだが、彼女は大きくうなずいて、痛み止めの薬はこのボタンを押せば体に流れていくと説明し、ボタンを一度押してくれた。痛みは我慢せずに、自分でボタンを押すのよ、そう言われたエイミは返事をするかわりに、なぜか壁のイエスキリストを見上げた。一握りの罪悪感が生まれた。

 

 病室は二人部屋だったが、隣の窓際のベッドは空いていた。

 うとうとしていると、大柄の男性看護師が2人入ってきて、窓際のベッドの準備を始めた。一人はグレー、もう一人はサーモンピンクのスクラブを着ていた。

 「彼女がまた来るよ」

 グレーがそう言うと、「Again?」とサーモンピンクが大きな声を出す。

 

 ほどなくして、小さな老婆がベッドに乗せられて入ってきた。休ませるより先に、グレーが説教を始めた。

 「また心臓発作って聞いたけど、ここに来るのはこれで何度目だっけ? 僕の顔、覚えてるよね」

 「だって、痛いの、つらいの、苦しいの。家じゃあ、ゆっくりできないんだもの。お願い休ませてちょうだい」

 しゃがれたか細い声が答える。

 「ダメダメ。まったく何言ってんの。ドクターのチェックが済んだら、明日は朝から散歩をしてもらいますよ!」

 軽い口調でそう言うとグレーとサーモンピンクが病室を出て行った。

 

 その夜、小さな老婆は一晩中、ナースコールをし続けた。やって来た看護師が気に入らないと別の看護師を呼べと言い、別の看護師が来ると、あそこが痛い、ここが苦しいと文句を並べ立てている。

 

 エイミはげんなりした。それでなくても、病院の夜は繁華街のように賑やかだ。ただし、その賑やかさの質はまったく違う。咳、話し声、急患が運び込まれた足音、泣き声、ストレッチャーの金属音、うめき声、叫び声…

 

 早く夜が明けてほしい。壁のイエスキリストに向かって、エイミは真剣にそう願った。

 眠ったのか眠らなかったのか分からないが、気づくと、窓を覆うカーテンの隙間から朝日が差し込み、その一筋の光がイエスキリスに当たっていた。清浄で美しかった。病院の喧騒は嘘のように消えていた。

 

 エイミの喉はカラカラに渇き、お腹も空いていた。

 早朝のボランティアがエイミのベッドにやってきて、体を拭いてくれた。その後、ブルーのスクラブを着た看護師がやってきてエイミのまわりの機械をさっさと取り外し、鎮痛剤一粒と紅茶を運んできてくれた。そして、隣のベッドとを隔てていたカーテンをシャッと勢いよく開けると、エイミを見下ろし、にっこりと微笑みかけて出て行った。エイミは急に自分が弱者になった気がした。

 

 窓からの光で一気に病室が明るくなった。エイミが隣のベッドを見るともなく見ると、小さな黒人の老婆がじっとこっちを見ていた。にこりともしない。挨拶もなしだ。

 

 「で、あんた、どこが悪いの?」

 ぶしつけに聞いてくる。

 

 「いえ、別に大したことはありません」

 「どこ? 胃? 腸? 肝臓?」

 

 エイミが答えないでいると、ふんと鼻をならした。

 「あんた、どこから来たの?」

 エイミの答えを待たずに老婆は続ける。

 

 「あたしはね、ジャマイカから来たのさ。遠いところだよ。カナダに着いた時にはポケットに25セントきりっきゃなかった。今の若い人たちにゃ、想像もできんだろうよ」

 

 その後もエイミが聞いていようが聞いていまいがお構いなしに、老婆は誰かを責めるような調子で話し続けた。旦那と一緒に生きるために三つも四つも仕事をかけもちしたとか、6人の子供達を立派に育て上げたとか、その子供達は皆、良い仕事を見つけたが、カナダからアメリカに渡ってしまい、ちっとも顔を見せに帰って来ないだとか、そんな話をいつまでもいつまでも。

 

 ポケットに25セント…。

 

 エイミは想像していた。もし、私がこの国に来たときに、ポケットに25セントしかなかったら。

 両手で紅茶のカップを持って、ぬるくなったオレンジ色の液体で喉を潤し、想像してみた。…この一杯の紅茶さえ買えない。それは、心を無にして前に進むしかない、人生の新たな道のりへの挑戦。…自分だったらそれができるだろうか。

 

 老婆がベッドサイドテーブルの上のバックの中からもぞもぞと何やら取り出すと、「ほら!」と言って投げてよこした。

 それは卵の形をした小さなチョコレートだった。虹を背景に小さな花柄がちりばめられたカラフルな銀紙に包まれている。

 

 「今週末はイースターだよ」

 

 それまで仏頂面だった黒人の小さな老婆が、思いがけず口を横に広げて子猫のようなあどけなさでニンマリと笑った。白い歯が1本だけ見えた。

 

 「あたしもね、何度もここに来ているけどさ、また復活するんさ」

 

 You, too, eh.

 

 老婆の言葉と手の平の小さなイースターエッグの甘い香りが、エイミを少しだけ笑顔にした。

 

 ミントグリーンのスクラブを着たモデルのような美しい顔立ちの男性看護師が病室に入ってきた。

 「さあ、朝食前に散歩に行きましょう」

 そう言って、老婆の体をひょいと抱えてベッド脇に座らせ、足元に履き古したサンダルのような皮靴を置いた。

 老婆はまんざらでもなさそうにいそいそと靴を履いている。まるでこの時を待っていたかのようだ。

 

 二人が出ていくのとすれ違いに彼が入ってきた。

 昨日の素気なさから一転して、申し訳なさそうな顔でエイミを見つめている。無言のままの彼がエイミの手を握ろうと自分の手を伸ばしかけた時、老婆が長身の彼の腕のあたりを皺だらけの指でなじるようにはたいた。

 

 Happy Easter!

 

 カラフルなイースターエッグを彼の手にも一つ握らせると、あの子猫のようなあどけない顔でニンマリと笑って歯を1本だけ見せると、ミントグリーンに腕を組んでもらいながら病室をそろりそろりと出て行った。

 

 壁のイエスキリストが微笑んでいた。

あなたに会うまでは

 

 最初のデートですでに後悔していた。

 寒さが和らいだ2月の終わり、週末のトロントのダウンタウンは人ごみであふれかえっている。その中でひと際、悪い意味で目立っている男を見つけた。

 待ち合わせ場所の映画館の前にいる彼は誰よりも大きな体躯で、時代遅れのファッションに身を包み、まわりにいた見知らぬ人たち全員が私の名前を覚えたであろうほどの大声で私の名前を呼ぶ、デリカシーのない男。私は彼を軽く憎んだ。

 上映中も高らかに笑い声をあげ、あからさまに迷惑顔を見せる周囲の人たちなどお構いなしに、満面の笑顔で私の手を握ってくる。ああ、早く帰りたい。赤面して俯く私に、微笑みのシャワーをずぶ濡れになるほど浴びせかけてくる独りよがりの男。ああ、この人とは合わない。早々に別れることになるだろう。私は彼が絶対に入って来れない心の中でそう断言した。

 

 「俺は一匹オオカミでいい、誰とも群れる気はないね」

 日雇いの仕事で気ままに生きるウルフはよくそう言った。

 その割には日に何度も電話をかけてきて、訪ねれば必ず温かい食事が用意されていた。

 暗くて中途半端に広い彼のアパートには大きな水槽があって、その中には小さなミドリガメが二匹住んでいた。ウルフが冷蔵庫からチキンの生肉を出してきて、小さくちぎって水槽に落としてやると、うまそうに食べる。

 「やってみな」

 彼はそういって私の手に生肉を握らせると、キッチンで料理の続きを始める。

 食事をしながらしゃべるのはもっぱらウルフだった。話題は自分のことばかりで、私は早口でしゃべりまくる彼の口元ばかりを見つめていた。男のおしゃべりって最低。思い出したように視線を落として皿の料理をつつく。その料理が意外においしくて、思わず私は笑顔になってしまう。私の笑顔を見てウルフはごく自然に慣れた手つきで空になりかけのグラスに赤ワインを注ぐ。

 トロントの冬が長くて寒すぎるから、私は束の間の暖を求めてここにいる。春が来れば自然を装って別れればいい。男と女の出会いと別れなんて、この街には星の数ほどあるじゃない。

 Easy come, easy go.

 それが私。

 

 ところが、意に反してウルフとの二度目の冬が来た。気温がマイナス十度を下回り始めた頃、ウルフが旅をしようと言い出した。それは、カナダのトロントから米国フロリダのキーウエスト島まで車で行くという壮大な計画だった。

 「フロリダ半島の形ってカメの頭に似てるだろ」

 そう言いながら地図を開いてフロリダ半島を私に見せながら、旅のプランをえんえんとしゃべり続けた。

 私は旅行が嫌いだった。乗り物にはすぐ酔うし、重い荷物を持って歩いているとすぐに疲れてしまう。

 ウルフとショートトリップに出かけたことが何度かある。ナイアガラ、バリー、オタワにも行った。どうしたわけか、ウルフが運転する車には一度も酔ったことがなかった。荷物はいつも力だけはある大柄なウルフが持ってくれたから、へとへとに疲れることもない。ただ、見知らぬ人とすぐにおしゃべりを始める彼は時々、私を忘れて置き去りにした。

 「I love you.」

 私が不服顔でいると、上機嫌で戻ってきた彼はこう言って、ずぶ濡れになるほどの笑顔のシャワーを浴びせるのだった。そういう彼にもう何度うんざりしたことだろう。

 

 それでも結局、私は「NO」と言う機会を得られぬまま、休みをとってウルフと一緒に長い旅に出た。ナイアガラで国境を渡り、ペンシルバニア、メリーランド、ヴァージニア、ノースキャロライナ、サウスキャロライナと南下していった。トロントを出る時には耳当てをしてダウンコートを着ていたのに、ジョージアに入る頃には半そでのTシャツで過ごせるようになっていた。

 旅の始まりから終わりまで私はずっと不機嫌で、口を開けば喧嘩になり、感情的になって泣いたり騒いだりした。ウルフは口喧嘩には弱くて、すぐに言葉に詰まる。そのうち私が泣き出すと、やれやれと両手を広げるしぐさをして、私の感情をますます逆なでした。

 出会う人とすぐに友達になってしまう彼との距離はどんどん広がっていき、気づいた時にはどうやって近くに寄って行けばいいのか分からないほど彼の存在は遠くなっていた。

 それでも車は走り続け、ジャクソンビルを越えて国道95号線をさらに南下していった。キーウエスト島に行く前に、私達はデイトナビーチに立ち寄った。かつて全米のレーサーたちが集まり、この砂浜で熱戦が繰り広げられたという伝説の場所。広大な砂浜が続く美しいはずのビーチは真冬の風にさらされて閑散としており、どんより曇った空の下で鈍く光る鉛色の波がいくつも生まれては消えていく。

 最初に車のドアを開けて外で出たのは彼だった。私はいかにも寒そうな外には出たくなくて、しばらくの間、車の中から彼の姿を眺めていたけれども、これ以上、彼との溝を深めることもないかと思い直し、バックシートに無造作に置いてあったショールをつかむと、車のドアを開けて外へ足を踏み出した。

 ビーチでは強い風が渦巻くように吹いていて、私の表情をこわばらせ、目もうまく開けられない。

 私は体に巻き付けた大きなショールを潮風にはためかせながら、それでも砂浜で何かを見つけようと歩き出した。ちょうど陽が傾いていて、寒い砂浜を少しでも暖めようとオレンジ色の光が地平線から伸びている。けれども、その光はあまりにも遠い。体がどんどん冷えていくのを止められない私は、何も見つけられないまま踵を返して車に戻った。

 

 デイトナビーチを出た後、私達は国道1号線、通称オーバーシーズ・ハイウェイと呼ばれる道を走り、キーウエスト島を目指した。

 それは奇跡のような光景だった。私は手の中のカメラのシャッターを押すことも忘れて、ハイウェイの西に広がるエメラルドグリーンの海と東に広がるクリスタルブルーの海に心を奪われた。あたかも海の上を走り抜けていくような感覚に身を任せる。大自然に包まれたこの一瞬が風や空気と共に瞬く間に過去になっていくのが惜しい。おしゃべりなウルフも寡黙になってハンドルを握り続けた。

 目的地のキーウエスト島に着くと、私達は完全に決裂した。朝食だけ一緒にとって、あとは勝手に別行動をとった。私はヘミングウェイの家に入り浸り、一日中、猫を眺めた。

 この旅が終われば、私達も終わるのだ。お互いにそうなることを知っている。そして、私は心のどこかで安堵していた。

 キーウエスト島を出てカナダに向かって北上する頃から、ウルフはもう私がずぶ濡れになるほどの笑顔のシャワーを浴びせたりはしなくなった。

 トロントに戻った私はすぐに風邪を引いて寝込み、電話が鳴っても出なかった。やがて、電話も鳴らなくなり、自然に私達の関係は消滅した。

 これでよかったのだ。

 Easy come, easy go.

 それが私なのだから。

 

 トロントの長い冬が終わり、夏が始まる前の長雨の季節が過ぎ去ろうとする頃、私は古いアパートを引き払い、仕事場に近いアパートへ引っ越すことにした。荷物を整理していた時、アルバムに収めかけて途中になったままの古い写真が大量に出てきた。見ると、ウルフとトロントからキーウエスト島を往復した時のものもある。そうだ、旅から戻った後にひいた悪い風邪を治すのに3週間もかかって、あの時の旅の写真もまだ整理していないままだったのだ。

 私は、なにげなくプリントされた写真の束をぱらぱらと眺め出した。喧嘩を繰り返し、笑顔が減り、会話が減り、私はウルフから目をそらし、ウルフも私を見なくなっていった。そんな旅だった。

 アメリカの国道沿いの味気ない風景写真が続いた後、デイトナビーチの写真が出てきた。どんよりとした空の下に広がる海は、まるで生気を失った心の闇を映し出す鏡のように重苦しい透明感をたたえている。溜息をつきながら、次の写真をめくった途端、私は息をのんだ。

 その写真には、私一人だけが映っていた。

 オレンジ色の夕日が海に反射し、そのわずかな光が私の肩で戯れている。私の伸びかけた髪と体に巻き付けたショールが風になびき、海を背景に浮かび上がったシルエットは、すべての汚れた感情を払拭し、ただ、優しくそこに佇んでいる。

 私は写真を撮られたことに全く気づいていなかった。ウルフの目には、私はこんな風に映っていたのか。信じられない気持ちで私はその写真を見つめた。そして、私は別れてから初めて、ウルフと過ごした時間に思いを馳せた。見ないふりをしてきた訳の分からない自分の弱さに今やっと気づかされて、打ちのめされた気分だ。どうして私は出会った時から後ろ向きの感情しか持てなかったんだろう。どうして優しくできなかったんだろう。

 私は無意識に電話の受話器を握っていた。記憶をたどって人差し指が番号を押していく。やがて呼び出し音が聞こえてきた。なぜ、私は彼に電話しているの。一体なにを話す気なのだろうか。

 呼び出し音が消えて、その代わりに懐かしい、やっぱり苛立たしい声が聞こえた。

 「Hello」

 私は言葉を探すために、少しだけ息を吸い込んだ。

 その刹那、私の名を呼ぶウルフの声が耳に届いた。

4人と一人

 

 僕は昨日、新鮮な唐辛子を素手で触ってしまった。

 大学の友達のイーサンが実家の農場で獲れたからと大量にくれたのだ。ふだんから料理はそこそこするのだが、新鮮な唐辛子を扱うのはほぼ初めてだった。

 イーサンから「唐辛子の扱い方は知っているよね」と聞かれた時、僕は知ったかぶりをして「もちろんだよ」と答えたのだ。

 

 夕食作りに取りかかった時、まず真っ赤な唐辛子のさやを2つに割って、種を取り出し、細かく切り刻んだ。刻み終わったところで指先に何かを感じた。その何かはみるみるうちにヒリヒリ感に変わり、僕の指先から指の付け根までを侵食していく。しまった!と思った時はもう遅かった。石鹸をつけて冷水で何度も手を洗ったが、痺れるようなヒリヒリ感はむしろ増していく。

 

 どうにかこうにかその日の料理は完成したのだが、行き場のない痛みを孕んだ指が気になってしょうがなく、せっかくの料理の味も旨かったのかまずかったのか、味も何も覚えていない。

 

 翌日、僕は東へ向かう地下鉄に乗っていた。

 指はまだヒリヒリしている。気休めにさすってみるが、そんな動作は何の意味もない。

 中途半端な午後の時間帯の地下鉄はがらんとしていて、僕が乗った車両に乗客は一人もいなかった。と思ったら、僕の他に2人いた。

 

 一つの車両には三つドアがある。一人は一番西寄りのドアの近くのシートに進行方向とは逆に、僕に背を向ける格好で座っていた。顔は見えないけれど、ブルネットの長い髪に紺のウールの暖かそうなオーバーコートを着ている品のいい中年女性のようだった。こんな時間におしゃれして一体どこへ行くのだろう。

 

 もう一人はがっちりとした体躯の男で、くたびれたジーンズとTシャツに薄いジャケットを着ている。まるで季節感がない。僕と同い年くらいだろうか。いや、案外もっと上かもしれない。中央のドアをはさんで僕の斜め向かいに、だらしなく両脚を大きく広げて寝そべるような恰好で座っている。汚れが目立つ白いTシャツを着ているのに、なぜか不潔感を感じさせない。聖戦に挑むソルジャーのようにも、薄汚れたホームレスのようにも見える。手にした赤い紙袋以外は何も持っていない。その赤は、僕に昨日の唐辛子を思い出させ、忘れかけた痛みを疼き出させる。あの袋の中身はなんだろう。形からして瓶のように見える。酒だろうか。

 

 トロントの街では酒をむきだしの状態で持つのはタブーだ。だから、袋やバックの中に入れて持ち歩く。外での飲酒は違法だ。禁酒時代の名残だというが、寒すぎて外に出られない冬の長い時間を持て余し、つい自家製の酒を造り、中毒になるほど飲みたくなる気持ちは分からないでもない。僕は下戸だけれども。

 

 赤を見たのがいけなかった。地下鉄の心地良い揺れの中でも、指のヒリヒリは確かに生きていて、時々、主張するような痺れにも似た鋭い痛みを発し、僕を弄ぶ。

 

 電車はちょうどダウンタウンの中心部のヤング駅に着いた。ふといつもと違う気がした。僕は痛む指から視線を上げて、社内を見回した。あの中年女性はどこかで下車したらしく、社内は僕とくたびれたジーンズの男だけになっていた。

 

 ドアはなぜか開いたままで、発車音も鳴らないままだ。まあ、この街ではよくあることだ。地下鉄は時々、こんな風に乗客の心情などお構いなしに止まってしまうのだ。

 

 くたびれたジーンズの男は少しうつむき加減で、眠っているわけでもないのに、微動だにしない。薄目をあけて床の一点を見つめている。

 僕はといえば、指のヒリヒリが気になって仕方がない。手のひらを開いたり閉じたりしてみる。一体いつまでこの痛みに耐えればいいのか、一体いつまで待たされるのか。

 

 プラットフォームには奇妙なくらい人影が少ない。

 

 溜息をつきかけた時に、すっと誰かが中央のドアから入ってきた。見ると、制服を着た警官だった。僕の前に立った。どきりとした。しばらくしてから、もう一人の警官がふらりと入ってきた。さりげなくドアの前に立っている。2人は何をするでもない。言葉も発しない。

 

 気づくと西寄りのドアからも2人の警官が入ってきていた。一人は中年女性が座っていたシートに座って、体の向きをかえてこっちを見ている風だが、やはり何も言わない。

 

 もう一人は西寄りのドアの近くに出口を塞ぐように立っているが、やはり何もしない。

 

 4人の警官が地下鉄の車両の中にいる。そして、何もしない。異様だ。僕は彼らの大柄で頑丈そうな体躯と厚い胸板に圧倒されながら、ああ、あれは防弾チョッキだと思い当たる。腰には拳銃があり、それを見た途端、僕の背筋を冷たいものが走り、尻のあたりがぞわぞわとし出す。

 

 もはや地下鉄は動き出す気配もない。いつもなら遅延のアナウンスが入るのに、マイクのノイズさえ聞こえない。そのかわり、僕は自分の心臓の鼓動を聞いていた。

 

 4人は誰にも気づかれない幽霊のようなしなやかな動きで、物音も立てずにくたびれたジーンズの男の近くへと少しずつ歩み寄っていく。笑顔でもなく、威嚇でもない。4人の視線はバラバラなのにターゲットをしっかりと見据えている。完璧な無表情の4人の警官達はいまや一人の男に1ミリの隙も与えない位置にいた。

 

 微動だにしなかったくたびれたジーンズの男は、促されもしないのに、黙ってゆっくりと立ち上がった。叫びもしない、暴れもしない。その一人の男を、4人の警官達が守るようにして取り囲み、彼らは無言で車両を降りていった。

 

 くたびれたジーンズの男が車両から足を踏み出した時、手に握られた赤い紙袋の中身が少しだけ露呈した。中にはガラスの瓶があり、その中で透明の液体が揺れているのを僕は見てしまった。

 

 4人と一人がいなくなった車両は、まるで夢から覚醒するように日常の現実感を取り戻していく。プラットフォームに鳴り響く柔らかな発車音で世界はやっと色彩を帯び、僕は一気に「今」に引き戻された。ドアが閉まり、地下鉄は再び東に向かって走り出す。

 

 僕は相変わらずヒリヒリする指を持て余しているのだが、頭の中では「起こらなかった出来事」について考えていた。

 

 あのくたびれたジーンズの男は誰だったのか、あの液体が何だったのか、何をしようとしていたのか。僕は自分が巻き込まれたかもしれない悲劇などまったく想像もせず、僕が永遠に知ることのない真実が存在することに思いを馳せている。

 

 だけど、と僕は思う。だけど彼は、もしかすると長い時間、彼を悩まし続けたかもしれない痛みからあの4人に救われたのだ。そう思った時、僕のヒリヒリする指の痛みがふいに消滅していたことに気づいた。もうあの痛みが思い出せない。今日のことも僕はいつか忘れてしまうのだろうか。

 

 何も起きなかった。ニュースにも出ていなかった。でも、ヒーロー達がいた。

モンブラン

 

 温子が二十歳の誕生日を迎えた日、筆記具が好きな彼女のために一つ上の兄と二つ下の妹が大枚をはたいて彼女にモンブランの万年筆を贈った。細身のスタイリッシュなフォルムに近未来的なガンメタリックカラーの斬新で美しいデザインだ。

 

 物に執着がなく、よって物への感謝もなく、時代の先端を行く目新しいものばかりに惹かれていた温子に一抹の不安を感じた妹が、万年筆を手にとった彼女に一言、心もとなげにこう言った。

 

 「使ってね」

 

 その言葉が胸にずしりと来た。

 やがて、その万年筆は妹の予想通り、使用頻度が徐々に減っていき、それでも目につくところには置いて、時折、思い出したように使っていた。

 

 万年筆。この美しく悩ましい筆記具。そして、その最高峰に君臨するドイツ製のモンブラン。名前は忘れてしまったが、古い映画にこんなワンシーンがあった。

 

 成り上がった一人の男が社長室のデスクの前でうやうやしく差し出された書類に目を通している。彼の背後には天井まで届く磨き抜かれたガラス窓があり、その向こうには青空と輝くばかりの摩天楼が広がっている。男はこの契約でさらなる成功への道が約束されることになる。しかし、その表情にはぎらぎらとした欲望に満ちた貪欲さは微塵もない。日常のごく当たり前のことをする素振りで、イタリア製の上質なスーツジャケットの胸の内ポケットからモンブランの万年筆を取り出して、書類にサインをする。ペン先から流れるインクが彼の次の将来を約束した。

 

 それ以来、万年筆は永遠の憧れの存在になった。さりげなくリッチでスマートで永遠に古びることのない洗練された存在。それこそが万年筆なのだ。だのに、温子はその憧れの存在を手にしながら、いつしか使うことを忘れていった。

 

 10年が過ぎ、日本を出てカナダのトロントに住むようになってから、さらに20年が過ぎた。兄妹から贈られたモンブランは、それでもまだ彼女の近くにあった。

 

 ある日、思い立って久しぶりにペン先を紙に落としてみた。インクが出ない。白い紙にはペン先の透明な軌跡だけが空しく残った。インクを変えてみた。やはりインクは出てこない。湯に浸してみた。うっすらとインクが出てきた。しかし、それも長くは続かなかった。安物のインクはやめてモンブランのインクを買って試してみたが、ダメだった。もう捨てるしかないのか。

 

 諦めきれない温子は12月の寒風吹きすさぶ土曜の午後に、街のモンブランの店に行って、修理を依頼した。230ドルかかります、と言われた。一瞬ひるんだ温子の頭の中で妹の声がした。「使ってね」。結局、修理が完了しない場合でもレイバーコストとして50ドルかかることも承知して、修理依頼書にサインをした。修理には4週間から6週間かかるという。店を出ると西に向かって吹く強い風が温子の髪を前へ後ろへと弄ぶように巻き上げる。

 

 これでよかったのだ、と温子は思った。そういえば、生まれて初めて、古いものを捨てて新しいものを買うという道を選ばなかった。妹の声に背中を押されてしまった。が、これは他でもないモンブランの万年筆だ。モンブランの万年筆は100年間使える筆記具と言われている。30年で使えなくなるわけがない、温子はそう信じた。

 

 1週間後、店から電話が入った。修理センターから戻ってきたので、取りに来てくださいという。えっ、早すぎる!

 温子は雪の降りしきる中、店を訪れた。カウンターで預かり証の手紙を見せると、「ああ、あのペンの」と店の女性は言った。胸の名札に「エルマ」とあった。

 

 「You have a beautiful pen!

 

 そう言ってエルマはディスプレイ棚の下の大きな引き出しを開ける。そして、残念だけど、と続けた。

 「残念だけど、修理センターに送ったところ、このペンはすでに製造中止になっていて、修理用のパーツも何もありませんでした。そのため、何もされずに戻ってきたのです。だから修理代はいただきません」

 

 温子の心に闇がおりてきた。それで、と、預かっていたペンを引き出しから選び出し、袋から出しながら、彼女は続ける。

 「それで、私、このペンがあまりにも綺麗なものだから、試しに二晩、水に浸して、そのあと、スポイト状のこの器具で、あ、これは非売品なんですけどね、それで、インクが通らないかやってみたのです」

 

 ほんの少し沈黙してからエルマは、おもむろにペンのキャップをはずした。

 「そうしたら、ご覧のようにきれいに書けるようになりました!」

 エルマが紙に落としたペン先からグリーンのインクが躍り出てきた。

 

 温子は息をのんで、ただ、グリーンのインクで描かれた曲線を信じられない気持ちで見つめていた。

 「さあ、どうぞ、あなたの手で試し書きしてみてください」

 

 温子は、懐かしいペンを握りしめて、「Fantastic!」と書き、「ファンタスティック!」と顔をくしゃくしゃにしてエルマに言った。

 

 長く使わない時はインク詰まりが起きないようインクカートリッジをはずしてくださいね、とエルマは子供に諭すような口調で温子にアドバイスした。これまで、midnight blueが装填されたいた温子の万年筆には、エルマが選んだIrish Greenが装填された。

 新しい始まりだ。

 「ありがとう」

 温子は心からのお礼を言って店を出た。雪はまだ降っている。

 

 明日はクリスマスイブだから、ラストミニッツでショッピングする人達で、街は汗ばんでいる。地下鉄に乗れば、小さな子供を連れた家族が口喧嘩をしている。隣に座った白いひげの紳士が黒革のカバンから小さな本を取り出した。大きな溜息と共にページを開く。若者たちはスマートフォンに夢中だ。そして、温子のバックパックの中では、モンブランのロゴが入った白い巾着袋におさまった万年筆が心臓のような存在感で息づき輝いている。すべてのモノが生きている。

 メリークリスマス!

1