モンブラン

 

 温子が二十歳の誕生日を迎えた日、筆記具が好きな彼女のために一つ上の兄と二つ下の妹が大枚をはたいて彼女にモンブランの万年筆を贈った。細身のスタイリッシュなフォルムに近未来的なガンメタリックカラーの斬新で美しいデザインだ。

 

 物に執着がなく、よって物への感謝もなく、時代の先端を行く目新しいものばかりに惹かれていた温子に一抹の不安を感じた妹が、万年筆を手にとった彼女に一言、心もとなげにこう言った。

 

 「使ってね」

 

 その言葉が胸にずしりと来た。

 やがて、その万年筆は妹の予想通り、使用頻度が徐々に減っていき、それでも目につくところには置いて、時折、思い出したように使っていた。

 

 万年筆。この美しく悩ましい筆記具。そして、その最高峰に君臨するドイツ製のモンブラン。名前は忘れてしまったが、古い映画にこんなワンシーンがあった。

 

 成り上がった一人の男が社長室のデスクの前でうやうやしく差し出された書類に目を通している。彼の背後には天井まで届く磨き抜かれたガラス窓があり、その向こうには青空と輝くばかりの摩天楼が広がっている。男はこの契約でさらなる成功への道が約束されることになる。しかし、その表情にはぎらぎらとした欲望に満ちた貪欲さは微塵もない。日常のごく当たり前のことをする素振りで、イタリア製の上質なスーツジャケットの胸の内ポケットからモンブランの万年筆を取り出して、書類にサインをする。ペン先から流れるインクが彼の次の将来を約束した。

 

 それ以来、万年筆は永遠の憧れの存在になった。さりげなくリッチでスマートで永遠に古びることのない洗練された存在。それこそが万年筆なのだ。だのに、温子はその憧れの存在を手にしながら、いつしか使うことを忘れていった。

 

 10年が過ぎ、日本を出てカナダのトロントに住むようになってから、さらに20年が過ぎた。兄妹から贈られたモンブランは、それでもまだ彼女の近くにあった。

 

 ある日、思い立って久しぶりにペン先を紙に落としてみた。インクが出ない。白い紙にはペン先の透明な軌跡だけが空しく残った。インクを変えてみた。やはりインクは出てこない。湯に浸してみた。うっすらとインクが出てきた。しかし、それも長くは続かなかった。安物のインクはやめてモンブランのインクを買って試してみたが、ダメだった。もう捨てるしかないのか。

 

 諦めきれない温子は12月の寒風吹きすさぶ土曜の午後に、街のモンブランの店に行って、修理を依頼した。230ドルかかります、と言われた。一瞬ひるんだ温子の頭の中で妹の声がした。「使ってね」。結局、修理が完了しない場合でもレイバーコストとして50ドルかかることも承知して、修理依頼書にサインをした。修理には4週間から6週間かかるという。店を出ると西に向かって吹く強い風が温子の髪を前へ後ろへと弄ぶように巻き上げる。

 

 これでよかったのだ、と温子は思った。そういえば、生まれて初めて、古いものを捨てて新しいものを買うという道を選ばなかった。妹の声に背中を押されてしまった。が、これは他でもないモンブランの万年筆だ。モンブランの万年筆は100年間使える筆記具と言われている。30年で使えなくなるわけがない、温子はそう信じた。

 

 1週間後、店から電話が入った。修理センターから戻ってきたので、取りに来てくださいという。えっ、早すぎる!

 温子は雪の降りしきる中、店を訪れた。カウンターで預かり証の手紙を見せると、「ああ、あのペンの」と店の女性は言った。胸の名札に「エルマ」とあった。

 

 「You have a beautiful pen!

 

 そう言ってエルマはディスプレイ棚の下の大きな引き出しを開ける。そして、残念だけど、と続けた。

 「残念だけど、修理センターに送ったところ、このペンはすでに製造中止になっていて、修理用のパーツも何もありませんでした。そのため、何もされずに戻ってきたのです。だから修理代はいただきません」

 

 温子の心に闇がおりてきた。それで、と、預かっていたペンを引き出しから選び出し、袋から出しながら、彼女は続ける。

 「それで、私、このペンがあまりにも綺麗なものだから、試しに二晩、水に浸して、そのあと、スポイト状のこの器具で、あ、これは非売品なんですけどね、それで、インクが通らないかやってみたのです」

 

 ほんの少し沈黙してからエルマは、おもむろにペンのキャップをはずした。

 「そうしたら、ご覧のようにきれいに書けるようになりました!」

 エルマが紙に落としたペン先からグリーンのインクが躍り出てきた。

 

 温子は息をのんで、ただ、グリーンのインクで描かれた曲線を信じられない気持ちで見つめていた。

 「さあ、どうぞ、あなたの手で試し書きしてみてください」

 

 温子は、懐かしいペンを握りしめて、「Fantastic!」と書き、「ファンタスティック!」と顔をくしゃくしゃにしてエルマに言った。

 

 長く使わない時はインク詰まりが起きないようインクカートリッジをはずしてくださいね、とエルマは子供に諭すような口調で温子にアドバイスした。これまで、midnight blueが装填されたいた温子の万年筆には、エルマが選んだIrish Greenが装填された。

 新しい始まりだ。

 「ありがとう」

 温子は心からのお礼を言って店を出た。雪はまだ降っている。

 

 明日はクリスマスイブだから、ラストミニッツでショッピングする人達で、街は汗ばんでいる。地下鉄に乗れば、小さな子供を連れた家族が口喧嘩をしている。隣に座った白いひげの紳士が黒革のカバンから小さな本を取り出した。大きな溜息と共にページを開く。若者たちはスマートフォンに夢中だ。そして、温子のバックパックの中では、モンブランのロゴが入った白い巾着袋におさまった万年筆が心臓のような存在感で息づき輝いている。すべてのモノが生きている。

 メリークリスマス!