4人と一人

 

 僕は昨日、新鮮な唐辛子を素手で触ってしまった。

 大学の友達のイーサンが実家の農場で獲れたからと大量にくれたのだ。ふだんから料理はそこそこするのだが、新鮮な唐辛子を扱うのはほぼ初めてだった。

 イーサンから「唐辛子の扱い方は知っているよね」と聞かれた時、僕は知ったかぶりをして「もちろんだよ」と答えたのだ。

 

 夕食作りに取りかかった時、まず真っ赤な唐辛子のさやを2つに割って、種を取り出し、細かく切り刻んだ。刻み終わったところで指先に何かを感じた。その何かはみるみるうちにヒリヒリ感に変わり、僕の指先から指の付け根までを侵食していく。しまった!と思った時はもう遅かった。石鹸をつけて冷水で何度も手を洗ったが、痺れるようなヒリヒリ感はむしろ増していく。

 

 どうにかこうにかその日の料理は完成したのだが、行き場のない痛みを孕んだ指が気になってしょうがなく、せっかくの料理の味も旨かったのかまずかったのか、味も何も覚えていない。

 

 翌日、僕は東へ向かう地下鉄に乗っていた。

 指はまだヒリヒリしている。気休めにさすってみるが、そんな動作は何の意味もない。

 中途半端な午後の時間帯の地下鉄はがらんとしていて、僕が乗った車両に乗客は一人もいなかった。と思ったら、僕の他に2人いた。

 

 一つの車両には三つドアがある。一人は一番西寄りのドアの近くのシートに進行方向とは逆に、僕に背を向ける格好で座っていた。顔は見えないけれど、ブルネットの長い髪に紺のウールの暖かそうなオーバーコートを着ている品のいい中年女性のようだった。こんな時間におしゃれして一体どこへ行くのだろう。

 

 もう一人はがっちりとした体躯の男で、くたびれたジーンズとTシャツに薄いジャケットを着ている。まるで季節感がない。僕と同い年くらいだろうか。いや、案外もっと上かもしれない。中央のドアをはさんで僕の斜め向かいに、だらしなく両脚を大きく広げて寝そべるような恰好で座っている。汚れが目立つ白いTシャツを着ているのに、なぜか不潔感を感じさせない。聖戦に挑むソルジャーのようにも、薄汚れたホームレスのようにも見える。手にした赤い紙袋以外は何も持っていない。その赤は、僕に昨日の唐辛子を思い出させ、忘れかけた痛みを疼き出させる。あの袋の中身はなんだろう。形からして瓶のように見える。酒だろうか。

 

 トロントの街では酒をむきだしの状態で持つのはタブーだ。だから、袋やバックの中に入れて持ち歩く。外での飲酒は違法だ。禁酒時代の名残だというが、寒すぎて外に出られない冬の長い時間を持て余し、つい自家製の酒を造り、中毒になるほど飲みたくなる気持ちは分からないでもない。僕は下戸だけれども。

 

 赤を見たのがいけなかった。地下鉄の心地良い揺れの中でも、指のヒリヒリは確かに生きていて、時々、主張するような痺れにも似た鋭い痛みを発し、僕を弄ぶ。

 

 電車はちょうどダウンタウンの中心部のヤング駅に着いた。ふといつもと違う気がした。僕は痛む指から視線を上げて、社内を見回した。あの中年女性はどこかで下車したらしく、社内は僕とくたびれたジーンズの男だけになっていた。

 

 ドアはなぜか開いたままで、発車音も鳴らないままだ。まあ、この街ではよくあることだ。地下鉄は時々、こんな風に乗客の心情などお構いなしに止まってしまうのだ。

 

 くたびれたジーンズの男は少しうつむき加減で、眠っているわけでもないのに、微動だにしない。薄目をあけて床の一点を見つめている。

 僕はといえば、指のヒリヒリが気になって仕方がない。手のひらを開いたり閉じたりしてみる。一体いつまでこの痛みに耐えればいいのか、一体いつまで待たされるのか。

 

 プラットフォームには奇妙なくらい人影が少ない。

 

 溜息をつきかけた時に、すっと誰かが中央のドアから入ってきた。見ると、制服を着た警官だった。僕の前に立った。どきりとした。しばらくしてから、もう一人の警官がふらりと入ってきた。さりげなくドアの前に立っている。2人は何をするでもない。言葉も発しない。

 

 気づくと西寄りのドアからも2人の警官が入ってきていた。一人は中年女性が座っていたシートに座って、体の向きをかえてこっちを見ている風だが、やはり何も言わない。

 

 もう一人は西寄りのドアの近くに出口を塞ぐように立っているが、やはり何もしない。

 

 4人の警官が地下鉄の車両の中にいる。そして、何もしない。異様だ。僕は彼らの大柄で頑丈そうな体躯と厚い胸板に圧倒されながら、ああ、あれは防弾チョッキだと思い当たる。腰には拳銃があり、それを見た途端、僕の背筋を冷たいものが走り、尻のあたりがぞわぞわとし出す。

 

 もはや地下鉄は動き出す気配もない。いつもなら遅延のアナウンスが入るのに、マイクのノイズさえ聞こえない。そのかわり、僕は自分の心臓の鼓動を聞いていた。

 

 4人は誰にも気づかれない幽霊のようなしなやかな動きで、物音も立てずにくたびれたジーンズの男の近くへと少しずつ歩み寄っていく。笑顔でもなく、威嚇でもない。4人の視線はバラバラなのにターゲットをしっかりと見据えている。完璧な無表情の4人の警官達はいまや一人の男に1ミリの隙も与えない位置にいた。

 

 微動だにしなかったくたびれたジーンズの男は、促されもしないのに、黙ってゆっくりと立ち上がった。叫びもしない、暴れもしない。その一人の男を、4人の警官達が守るようにして取り囲み、彼らは無言で車両を降りていった。

 

 くたびれたジーンズの男が車両から足を踏み出した時、手に握られた赤い紙袋の中身が少しだけ露呈した。中にはガラスの瓶があり、その中で透明の液体が揺れているのを僕は見てしまった。

 

 4人と一人がいなくなった車両は、まるで夢から覚醒するように日常の現実感を取り戻していく。プラットフォームに鳴り響く柔らかな発車音で世界はやっと色彩を帯び、僕は一気に「今」に引き戻された。ドアが閉まり、地下鉄は再び東に向かって走り出す。

 

 僕は相変わらずヒリヒリする指を持て余しているのだが、頭の中では「起こらなかった出来事」について考えていた。

 

 あのくたびれたジーンズの男は誰だったのか、あの液体が何だったのか、何をしようとしていたのか。僕は自分が巻き込まれたかもしれない悲劇などまったく想像もせず、僕が永遠に知ることのない真実が存在することに思いを馳せている。

 

 だけど、と僕は思う。だけど彼は、もしかすると長い時間、彼を悩まし続けたかもしれない痛みからあの4人に救われたのだ。そう思った時、僕のヒリヒリする指の痛みがふいに消滅していたことに気づいた。もうあの痛みが思い出せない。今日のことも僕はいつか忘れてしまうのだろうか。

 

 何も起きなかった。ニュースにも出ていなかった。でも、ヒーロー達がいた。