あなたに会うまでは

 

 最初のデートですでに後悔していた。

 寒さが和らいだ2月の終わり、週末のトロントのダウンタウンは人ごみであふれかえっている。その中でひと際、悪い意味で目立っている男を見つけた。

 待ち合わせ場所の映画館の前にいる彼は誰よりも大きな体躯で、時代遅れのファッションに身を包み、まわりにいた見知らぬ人たち全員が私の名前を覚えたであろうほどの大声で私の名前を呼ぶ、デリカシーのない男。私は彼を軽く憎んだ。

 上映中も高らかに笑い声をあげ、あからさまに迷惑顔を見せる周囲の人たちなどお構いなしに、満面の笑顔で私の手を握ってくる。ああ、早く帰りたい。赤面して俯く私に、微笑みのシャワーをずぶ濡れになるほど浴びせかけてくる独りよがりの男。ああ、この人とは合わない。早々に別れることになるだろう。私は彼が絶対に入って来れない心の中でそう断言した。

 

 「俺は一匹オオカミでいい、誰とも群れる気はないね」

 日雇いの仕事で気ままに生きるウルフはよくそう言った。

 その割には日に何度も電話をかけてきて、訪ねれば必ず温かい食事が用意されていた。

 暗くて中途半端に広い彼のアパートには大きな水槽があって、その中には小さなミドリガメが二匹住んでいた。ウルフが冷蔵庫からチキンの生肉を出してきて、小さくちぎって水槽に落としてやると、うまそうに食べる。

 「やってみな」

 彼はそういって私の手に生肉を握らせると、キッチンで料理の続きを始める。

 食事をしながらしゃべるのはもっぱらウルフだった。話題は自分のことばかりで、私は早口でしゃべりまくる彼の口元ばかりを見つめていた。男のおしゃべりって最低。思い出したように視線を落として皿の料理をつつく。その料理が意外においしくて、思わず私は笑顔になってしまう。私の笑顔を見てウルフはごく自然に慣れた手つきで空になりかけのグラスに赤ワインを注ぐ。

 トロントの冬が長くて寒すぎるから、私は束の間の暖を求めてここにいる。春が来れば自然を装って別れればいい。男と女の出会いと別れなんて、この街には星の数ほどあるじゃない。

 Easy come, easy go.

 それが私。

 

 ところが、意に反してウルフとの二度目の冬が来た。気温がマイナス十度を下回り始めた頃、ウルフが旅をしようと言い出した。それは、カナダのトロントから米国フロリダのキーウエスト島まで車で行くという壮大な計画だった。

 「フロリダ半島の形ってカメの頭に似てるだろ」

 そう言いながら地図を開いてフロリダ半島を私に見せながら、旅のプランをえんえんとしゃべり続けた。

 私は旅行が嫌いだった。乗り物にはすぐ酔うし、重い荷物を持って歩いているとすぐに疲れてしまう。

 ウルフとショートトリップに出かけたことが何度かある。ナイアガラ、バリー、オタワにも行った。どうしたわけか、ウルフが運転する車には一度も酔ったことがなかった。荷物はいつも力だけはある大柄なウルフが持ってくれたから、へとへとに疲れることもない。ただ、見知らぬ人とすぐにおしゃべりを始める彼は時々、私を忘れて置き去りにした。

 「I love you.」

 私が不服顔でいると、上機嫌で戻ってきた彼はこう言って、ずぶ濡れになるほどの笑顔のシャワーを浴びせるのだった。そういう彼にもう何度うんざりしたことだろう。

 

 それでも結局、私は「NO」と言う機会を得られぬまま、休みをとってウルフと一緒に長い旅に出た。ナイアガラで国境を渡り、ペンシルバニア、メリーランド、ヴァージニア、ノースキャロライナ、サウスキャロライナと南下していった。トロントを出る時には耳当てをしてダウンコートを着ていたのに、ジョージアに入る頃には半そでのTシャツで過ごせるようになっていた。

 旅の始まりから終わりまで私はずっと不機嫌で、口を開けば喧嘩になり、感情的になって泣いたり騒いだりした。ウルフは口喧嘩には弱くて、すぐに言葉に詰まる。そのうち私が泣き出すと、やれやれと両手を広げるしぐさをして、私の感情をますます逆なでした。

 出会う人とすぐに友達になってしまう彼との距離はどんどん広がっていき、気づいた時にはどうやって近くに寄って行けばいいのか分からないほど彼の存在は遠くなっていた。

 それでも車は走り続け、ジャクソンビルを越えて国道95号線をさらに南下していった。キーウエスト島に行く前に、私達はデイトナビーチに立ち寄った。かつて全米のレーサーたちが集まり、この砂浜で熱戦が繰り広げられたという伝説の場所。広大な砂浜が続く美しいはずのビーチは真冬の風にさらされて閑散としており、どんより曇った空の下で鈍く光る鉛色の波がいくつも生まれては消えていく。

 最初に車のドアを開けて外で出たのは彼だった。私はいかにも寒そうな外には出たくなくて、しばらくの間、車の中から彼の姿を眺めていたけれども、これ以上、彼との溝を深めることもないかと思い直し、バックシートに無造作に置いてあったショールをつかむと、車のドアを開けて外へ足を踏み出した。

 ビーチでは強い風が渦巻くように吹いていて、私の表情をこわばらせ、目もうまく開けられない。

 私は体に巻き付けた大きなショールを潮風にはためかせながら、それでも砂浜で何かを見つけようと歩き出した。ちょうど陽が傾いていて、寒い砂浜を少しでも暖めようとオレンジ色の光が地平線から伸びている。けれども、その光はあまりにも遠い。体がどんどん冷えていくのを止められない私は、何も見つけられないまま踵を返して車に戻った。

 

 デイトナビーチを出た後、私達は国道1号線、通称オーバーシーズ・ハイウェイと呼ばれる道を走り、キーウエスト島を目指した。

 それは奇跡のような光景だった。私は手の中のカメラのシャッターを押すことも忘れて、ハイウェイの西に広がるエメラルドグリーンの海と東に広がるクリスタルブルーの海に心を奪われた。あたかも海の上を走り抜けていくような感覚に身を任せる。大自然に包まれたこの一瞬が風や空気と共に瞬く間に過去になっていくのが惜しい。おしゃべりなウルフも寡黙になってハンドルを握り続けた。

 目的地のキーウエスト島に着くと、私達は完全に決裂した。朝食だけ一緒にとって、あとは勝手に別行動をとった。私はヘミングウェイの家に入り浸り、一日中、猫を眺めた。

 この旅が終われば、私達も終わるのだ。お互いにそうなることを知っている。そして、私は心のどこかで安堵していた。

 キーウエスト島を出てカナダに向かって北上する頃から、ウルフはもう私がずぶ濡れになるほどの笑顔のシャワーを浴びせたりはしなくなった。

 トロントに戻った私はすぐに風邪を引いて寝込み、電話が鳴っても出なかった。やがて、電話も鳴らなくなり、自然に私達の関係は消滅した。

 これでよかったのだ。

 Easy come, easy go.

 それが私なのだから。

 

 トロントの長い冬が終わり、夏が始まる前の長雨の季節が過ぎ去ろうとする頃、私は古いアパートを引き払い、仕事場に近いアパートへ引っ越すことにした。荷物を整理していた時、アルバムに収めかけて途中になったままの古い写真が大量に出てきた。見ると、ウルフとトロントからキーウエスト島を往復した時のものもある。そうだ、旅から戻った後にひいた悪い風邪を治すのに3週間もかかって、あの時の旅の写真もまだ整理していないままだったのだ。

 私は、なにげなくプリントされた写真の束をぱらぱらと眺め出した。喧嘩を繰り返し、笑顔が減り、会話が減り、私はウルフから目をそらし、ウルフも私を見なくなっていった。そんな旅だった。

 アメリカの国道沿いの味気ない風景写真が続いた後、デイトナビーチの写真が出てきた。どんよりとした空の下に広がる海は、まるで生気を失った心の闇を映し出す鏡のように重苦しい透明感をたたえている。溜息をつきながら、次の写真をめくった途端、私は息をのんだ。

 その写真には、私一人だけが映っていた。

 オレンジ色の夕日が海に反射し、そのわずかな光が私の肩で戯れている。私の伸びかけた髪と体に巻き付けたショールが風になびき、海を背景に浮かび上がったシルエットは、すべての汚れた感情を払拭し、ただ、優しくそこに佇んでいる。

 私は写真を撮られたことに全く気づいていなかった。ウルフの目には、私はこんな風に映っていたのか。信じられない気持ちで私はその写真を見つめた。そして、私は別れてから初めて、ウルフと過ごした時間に思いを馳せた。見ないふりをしてきた訳の分からない自分の弱さに今やっと気づかされて、打ちのめされた気分だ。どうして私は出会った時から後ろ向きの感情しか持てなかったんだろう。どうして優しくできなかったんだろう。

 私は無意識に電話の受話器を握っていた。記憶をたどって人差し指が番号を押していく。やがて呼び出し音が聞こえてきた。なぜ、私は彼に電話しているの。一体なにを話す気なのだろうか。

 呼び出し音が消えて、その代わりに懐かしい、やっぱり苛立たしい声が聞こえた。

 「Hello」

 私は言葉を探すために、少しだけ息を吸い込んだ。

 その刹那、私の名を呼ぶウルフの声が耳に届いた。