壁のイエスキリスト

 

 エイミが目を覚ますと、一番最初に壁の高いところにある十字架に架けられたイエスキリストが視界に飛び込んできた。黒ずんで埃をかぶったイエスキリストはもう何十年もそこに留まって、この病室を見下ろしてきたようだ。

 

 ベッドのまわりには誰もいない。そのかわりに、エイミの体から伸びているいくつかの管が、ベッド脇の透明な液体の入った点滴の袋がぶらさがったスタンドや見たこともない医療機器につながっている。ああ、そうだ、と思い出した。

 

 手術は終わったけれど、ちょっと複雑なことになったのだ。付き添いに来てくれた彼が「今日、一晩入院することになったって」と素っ気なく告げた。じゃあ、仕事があるから、また明日来るよ、ゆっくり眠りな、そう言って彼は逃げるようにそそくさと病室を出て行った。エイミは目でうなずいた後、重い瞼に抗えず、すぐにまた眠りに落ちて行ったのだった。

 

 今、完全に覚醒したエイミはほっと小さく溜息をついた。同時に体の感覚を確かめていく。頭のてっぺん、顔、鼻、口、肩、腕、手のひら、胸、腰、太もも、膝、足、つま先。大丈夫、少し重たいけど、手術前と同じように感じることができる。でも、お腹のあたりにぽっかりと空洞ができていた。今朝まで二人だったのに、今は一人の体になったのだ。簡単な手術のはずだった。入院など必要ないはずだった。でも、何かが私を簡単には許さなかったのだ、とエイミは思う。涙は出なかったが、そのかわりにぎゅっと目をつぶって心の中で絶叫した。

 

 再び目を開けると、壁のイエスキリストがエイミを見ていた。そういえばトロントにはキリスト系の病院がいくつかあったなと思い出した。マウントサイナイ、セントジョセフ、セントマイケル…

 

 ダークグリーンのスクラブを着た大柄の女性看護師がひょいと入ってきて、エイミの顔を一瞥してから点滴のチェックを始めた。

 「気分はどう?」

 声を出そうとした時、全身に疲労を感じて、空気を斬るような音が喉から出た。喉がひどく痛む。そして、下腹部がジクジクとざわめきだした。

 

 「スケール1から10までで、今の痛み指数はいくつ?」

 分からない。第一、何も考えられない。

 Maybe seven?

 エイミは適当に答えたのだが、彼女は大きくうなずいて、痛み止めの薬はこのボタンを押せば体に流れていくと説明し、ボタンを一度押してくれた。痛みは我慢せずに、自分でボタンを押すのよ、そう言われたエイミは返事をするかわりに、なぜか壁のイエスキリストを見上げた。一握りの罪悪感が生まれた。

 

 病室は二人部屋だったが、隣の窓際のベッドは空いていた。

 うとうとしていると、大柄の男性看護師が2人入ってきて、窓際のベッドの準備を始めた。一人はグレー、もう一人はサーモンピンクのスクラブを着ていた。

 「彼女がまた来るよ」

 グレーがそう言うと、「Again?」とサーモンピンクが大きな声を出す。

 

 ほどなくして、小さな老婆がベッドに乗せられて入ってきた。休ませるより先に、グレーが説教を始めた。

 「また心臓発作って聞いたけど、ここに来るのはこれで何度目だっけ? 僕の顔、覚えてるよね」

 「だって、痛いの、つらいの、苦しいの。家じゃあ、ゆっくりできないんだもの。お願い休ませてちょうだい」

 しゃがれたか細い声が答える。

 「ダメダメ。まったく何言ってんの。ドクターのチェックが済んだら、明日は朝から散歩をしてもらいますよ!」

 軽い口調でそう言うとグレーとサーモンピンクが病室を出て行った。

 

 その夜、小さな老婆は一晩中、ナースコールをし続けた。やって来た看護師が気に入らないと別の看護師を呼べと言い、別の看護師が来ると、あそこが痛い、ここが苦しいと文句を並べ立てている。

 

 エイミはげんなりした。それでなくても、病院の夜は繁華街のように賑やかだ。ただし、その賑やかさの質はまったく違う。咳、話し声、急患が運び込まれた足音、泣き声、ストレッチャーの金属音、うめき声、叫び声…

 

 早く夜が明けてほしい。壁のイエスキリストに向かって、エイミは真剣にそう願った。

 眠ったのか眠らなかったのか分からないが、気づくと、窓を覆うカーテンの隙間から朝日が差し込み、その一筋の光がイエスキリスに当たっていた。清浄で美しかった。病院の喧騒は嘘のように消えていた。

 

 エイミの喉はカラカラに渇き、お腹も空いていた。

 早朝のボランティアがエイミのベッドにやってきて、体を拭いてくれた。その後、ブルーのスクラブを着た看護師がやってきてエイミのまわりの機械をさっさと取り外し、鎮痛剤一粒と紅茶を運んできてくれた。そして、隣のベッドとを隔てていたカーテンをシャッと勢いよく開けると、エイミを見下ろし、にっこりと微笑みかけて出て行った。エイミは急に自分が弱者になった気がした。

 

 窓からの光で一気に病室が明るくなった。エイミが隣のベッドを見るともなく見ると、小さな黒人の老婆がじっとこっちを見ていた。にこりともしない。挨拶もなしだ。

 

 「で、あんた、どこが悪いの?」

 ぶしつけに聞いてくる。

 

 「いえ、別に大したことはありません」

 「どこ? 胃? 腸? 肝臓?」

 

 エイミが答えないでいると、ふんと鼻をならした。

 「あんた、どこから来たの?」

 エイミの答えを待たずに老婆は続ける。

 

 「あたしはね、ジャマイカから来たのさ。遠いところだよ。カナダに着いた時にはポケットに25セントきりっきゃなかった。今の若い人たちにゃ、想像もできんだろうよ」

 

 その後もエイミが聞いていようが聞いていまいがお構いなしに、老婆は誰かを責めるような調子で話し続けた。旦那と一緒に生きるために三つも四つも仕事をかけもちしたとか、6人の子供達を立派に育て上げたとか、その子供達は皆、良い仕事を見つけたが、カナダからアメリカに渡ってしまい、ちっとも顔を見せに帰って来ないだとか、そんな話をいつまでもいつまでも。

 

 ポケットに25セント…。

 

 エイミは想像していた。もし、私がこの国に来たときに、ポケットに25セントしかなかったら。

 両手で紅茶のカップを持って、ぬるくなったオレンジ色の液体で喉を潤し、想像してみた。…この一杯の紅茶さえ買えない。それは、心を無にして前に進むしかない、人生の新たな道のりへの挑戦。…自分だったらそれができるだろうか。

 

 老婆がベッドサイドテーブルの上のバックの中からもぞもぞと何やら取り出すと、「ほら!」と言って投げてよこした。

 それは卵の形をした小さなチョコレートだった。虹を背景に小さな花柄がちりばめられたカラフルな銀紙に包まれている。

 

 「今週末はイースターだよ」

 

 それまで仏頂面だった黒人の小さな老婆が、思いがけず口を横に広げて子猫のようなあどけなさでニンマリと笑った。白い歯が1本だけ見えた。

 

 「あたしもね、何度もここに来ているけどさ、また復活するんさ」

 

 You, too, eh.

 

 老婆の言葉と手の平の小さなイースターエッグの甘い香りが、エイミを少しだけ笑顔にした。

 

 ミントグリーンのスクラブを着たモデルのような美しい顔立ちの男性看護師が病室に入ってきた。

 「さあ、朝食前に散歩に行きましょう」

 そう言って、老婆の体をひょいと抱えてベッド脇に座らせ、足元に履き古したサンダルのような皮靴を置いた。

 老婆はまんざらでもなさそうにいそいそと靴を履いている。まるでこの時を待っていたかのようだ。

 

 二人が出ていくのとすれ違いに彼が入ってきた。

 昨日の素気なさから一転して、申し訳なさそうな顔でエイミを見つめている。無言のままの彼がエイミの手を握ろうと自分の手を伸ばしかけた時、老婆が長身の彼の腕のあたりを皺だらけの指でなじるようにはたいた。

 

 Happy Easter!

 

 カラフルなイースターエッグを彼の手にも一つ握らせると、あの子猫のようなあどけない顔でニンマリと笑って歯を1本だけ見せると、ミントグリーンに腕を組んでもらいながら病室をそろりそろりと出て行った。

 

 壁のイエスキリストが微笑んでいた。